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創立者モード・パウラス

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1.熊本県近代文化功労者(昭和60年度)モード・パウラス博士

慈愛園の創立者であり広安愛児園の創立者でもあるモード・パウラス先生は、大正9年から昭和34年まで、第二次世界大戦の日米戦時を除いて、35年間、熊本に滞在して社会福祉の発展に寄与し、23施設を創立しました。日本人にキリストを伝え、愛と福祉を高めたその事業と人物について「熊本県近代文化功労者」として顕彰されました。

1889年  北アメリカのノースカロライナ州ババーの片田舎に生まれた。 サレム教会で洗礼を受ける。

*パウラス一家は多子家庭で1男7女の大家族でモードはその5女として生まれた。

1899年  父が疫病にかかって一夜のうちに病死  *母は、9人の子供を抱えた未亡人となり苦労の多い生活が展開された。子どもたちは母親の苦労を見かねて、みんなが力を合わせて働いた。

1900年  日本伝導をしていた宣教師の「キリスト教伝道報告」を読み深い感銘を受け「私は日本に行きたい。そして、日本人の為に働きたい。」と決意する。11歳の時である。

1914年  レイノア・ライン大学卒業、テモテ高等学校の教師となる。

1917年  ニューヨーク神学校に学び、その後、コーネル伝道学校で聖書を学ぶ

1918年  日本来日、東京の日本語学校にて日本語を学ぶ。  1919年  日本福音ルーテル教会では、アメリカ宣教師ネルソン夫人の発案によって、社会事業施設の設置が計画され委員会が設けられた。

1920年  ネルソン夫人に代わってモードが創立委員長に任命される。

熊本新屋敷に家を借りて、2~3人の子供を収容して仕事を始めた。

その後、社会福祉事業が展開されていったが、当時の孤児院では、40人の子供が1棟の寮舎に収容され、午前と午後の2交代制で保母が代わる代わる子どもたちの世話をしていた。従って、そこの子どもたちは母性の愛情を知らず、常に保母が代わるために愛撫の心に飢えていた。そして、家庭生活のことは全然分からないというのが実情であった。

妹のエーネは大学で社会事業を専攻していたが、そこで、家庭主義の小舎制養護の理論を教わっていたため、姉モードに小舎制を勧めたこともあったし、実際に慈愛園の保母として姉に協力したこともあった。

自分の貧困な家庭生活の体験と、妹からもたらされた大学による理論研究が、熊本に独創的なホーム式養護を誕生させた。

これが、熊本における小舎制養護の始まりです。

2.小舎制養護の始まり(慈愛園子供ホーム)

家庭的処遇を第一にするため、家屋は一戸建ての洋館とし、第一ホームから第八ホームまでを設置。ホーム間の間隔は、20~30mとした。ホームの周囲は、畑、花壇、野菜園とし、そのホームに属する耕作地が用意されて、そこに住む保母・児童指導員・児童によって花や畑が作られ、そのホームで消費され、自給自足とは言えないが、出来るだけその精神を生かすように運営されたので、全員がよく働き、児童は保母の手伝いをした。ホーム毎に台所を持ち、現品配給を利用して、児童も小学4年生位から料理当番にでて、全員が食事作りを手伝った。

モードは実家が9人兄弟であったが、1人は15歳で早死したことから、1ホーム子供8人として保母の限界とした。年齢を按配して配置し、保母をお母さんといい、そのホームに住むもので兄弟の交誼がもてるようにした。生活様式のすべてを家庭になぞらえ、家庭的精神要素を多くとりいれる運営を行ったが、これは、日本において独特のものであり、他の小舎制養護の追従を許さぬものがあった。すなわち、日本の児童養護施設のモデル的存在であった。

3.歴史を変えた名称変更

養老院→老人ホーム、母子寮→母子ホーム、孤児院→子供ホームなど、モードは、ホームと言う名称で施設を名付けた。そして、これらは後年、塩谷総一郎先生の発案に関わる老人福祉法案の施設名称をすべて、老人ホームと名付けた起源となっている。その点、日本の近代的運営のモデルと言える。

4.創立に関わった主な児童関係施設

児童養護施設:慈愛園子供ホーム・シオン園・広安愛児園・別府平和園

保育所   :ひかり幼児園・愛光幼児園・愛泉保育園・白羊保育園

盲聾唖児施設:熊本ライトハウス

幼稚園   :めぐみ幼稚園

5.モード・パウラス先生との別れ

1979年  慈愛園創立60年記念式に出席のため、来熊。熊本市長より感謝状の贈呈。   「熊本のみなさんにサヨウナラと言って下さい。」と言ってアメリカに帰られる。

1980年  ノースカロライナの故郷で召天。享年91歳でありました。

6.手記の日本語訳

モード・パウラス先生が米国で出版された手記の日本語訳が「愛と福祉のはざまに」です。

Maud%20Powlas

モード・パウラス

Receives Honors in Japan

1979年熊本

annie powlasエーネ・パウラス

画家アンデレ・カツさんの2005年8月礼拝教話より

その名前は「ミス、モード・パウラス」です。

モード・パウラスは、1889年(明治22年)北アメリカはノースカロライナ州バーバーで、パウラス家の1男8女の兄弟の5番目の女の子として生まれました。少しちじれた赤味がかった髪の毛をした可愛い赤ちゃんでした。パウラス一家は、かなりの広さの農場や山林を持ち、農業を営み作物や家畜を養って生活をしていました。その生活は決して裕福とはいえませんでしたが、平和で幸せな家庭でした。

両親は子供の教育に大変熱心で、又敬虔なルーテル教会の信徒でした。そんな家庭の子供としてモードは、生後2ヶ月も経たないある春の日に、カロライナ州サウスベリーのルーテルサレム教会で洗礼を受けました。

然しそんな幸せな家庭に、ある日突然不幸が訪れました。それは大黒柱だった父親の病死で、モードが10歳の時でした。母親のマーガレットは9人の子供を抱え未亡人になってしまいました。たちまち母親の肩には農場の経営と子供の教育という重荷がのしかかって来ました。

母のマーガレットは朝早くから夕方まで農場の仕事に励み、子供達の教育にも努力しました。子供達も母親を助けて家事の手伝いから農場のお仕事、家畜の世話まで、学校の傍ら一生懸命働いたのです。その頃長女のローザは18歳でしたが、大學を出ると家計を助ける為、近くの孤児院の保母さんとして働いていました。このことがモードが後年日本に来て孤児たちを助けるため社会奉仕をする遠因のなったのです。

モードは学校でも勉強に励み、家でも母親を助け、農作業や家畜のお世話に精を出しました。彼女が11歳になったそんなある日、モードの生涯を決めた忘れられない出来事にめぐり合いました。

それは、彼女が日頃足を踏み入れたことの無い小屋の屋根裏に入って、あるものに出会ったことでした。それは亡くなった熱心なクリスチャンであつた父親が残した「ルーテル教団の古い伝道新聞の束」でした。その新聞には、教団の宣教師達の外国での活動の報告がたくさん書かれていました。

その記事をモードはむさぼるように読み始めました。特にその中で彼女の心を捉えたのは、日本の佐賀県で宣教に従事していたリッパ―ドと言う婦人宣教師の報告の記事で、母親の病の回復を毎日神棚に祈る太郎という少年のお話でした。

モードにとっては、心を持ってない木の偶像に祈ってるとしか思えませんでした。この記事を読んで可哀想な少年にモードは涙を流しました。そしてモードは「私も宣教師になって日本に行きイエス様を知らない日本の子供達に、子供を愛し死んで下さったイエス様の事を教えてあげよう」と思いました。

彼女にとってこの事は神様がモードに「キリストの使徒となって、日本に行くように。」と言われている様に感じられました。そして「私は日本に行き、自分の生涯を捧げて、子供達にイエス様の事を教えて上げなくてはいけない。」と決心したのでした。彼女はその場で長い時間、自分の望みが叶えられるように、と神様に祈りました。

モードは高校・大学生活のなかでも、常に「神様のお召しによって日本に行く」という思いに導かれ、勉強に励みました。大学を出ると教会学校の先生をしたり、高校の先生をしたりして、その時を待ちましたが一向に日本に行けるような機会は来ませんでした。

矢張りそのための勉強をしなくてはいけない、とニューヨークの神学校に入り更にはコールネル大學の伝道学校に学びました。  1918年大正7年、やっと念願かなって、サウスベリーの聖ヨハネ教会に於いて、伝導局の任命を受け日本に行く事が認められました。屋根裏部屋で新聞を読み、「宣教師になって日本に行く事」を決心してから18年もの歳月が流れていました。

その年の夏いよいよ日本に旅立つ日が訪れました。サンフランシスコから大きな船に乗り日本に向けて出発しました。生まれてはじめての長い長い船旅でした。途中で嵐にあったり船酔いに苦しんだりしましたが、9月1日、海の上から見た美しい富士山に感動しながら横浜の港に日本での第一歩を印しました。

日本語学校での1年間の日本語の勉強を終え、宣教師として佐賀県に派遣されました。丁度その頃、ルーテル教団では日本に社会事業施設を造る計画があり、その施設が熊本に作られることになり、モードにその仕事を創立委員長としてやるように、と要請されました。

宣教師としての勉強は充分にしたつもりでしたが、社会事業施設の設立や経営は初めてのことであり、モードはどうしてよいかわからず戸惑いましたが、日本で社会事業をしている宣教師や日本人の社会事業家などを訪ねて、その教えを受けるなどの努力を続けました。

その頃の日本は、経済の不況がはなはだしく生活に困る人々が多く、苦しい生活の故に自分の子供を捨てたり、お金のために娘を売ったりするような人身売買が当たり前の様に行われているよな時代でした。

モードは家を一軒借りたりして、身寄りの無い子供達やかわいそうな娘達を保護する仕事を始めました。此れがモードの日本における神の愛を身を持って実践する第1歩の仕事になりました。

モードのこの働きを聞き、助けを求めてモードのもとへ逃げてくる娘達も大勢いました。また熊本市の中心部を流れている白川の幾つもの橋の下には浮浪者が住み着いていて、筵で作った小屋の中で生活していましたが、モードはそれらの人々を毎日の様に訪ねては、衣類や食べ物を与えたり、病人には薬を飲ませてあげたり、そこに住んでいる子供達を引き取って宣教師館につれて帰ったりもしていました。そのため借りた家も宣教師館もたちまち一杯になってしまいました。

その頃、熊本に予定されていた社会施設も具体化し、アメリカのルーテル婦人団体などからの多額の寄付金を基にして、熊本の水前寺公園近くの健軍村(現在は市内健軍町)に6000坪の広い土地を購入し、老人ホーム、子供ホーム、婦人ホームなど建設すべく工事が進められていました。

1923年大正12年にはこれらの施設が完成し、開園式が行われる事になりました。開園式にはアメリカと日本のルーテル関係者をはじめ地元の熊本県の県知事、熊本市長など多くの人たちが参列しました。そして施設の名前が「慈愛園」と命名され、輝かしい第一歩を踏み出しました。モードが日本に第1歩を記してから5年目でした。

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