目的の一致のために

この表題は、モード・パウラス著「愛と福祉のはざまに」の151ページにあります。 慈愛園子供ホーム運営の初期の頃、10名の常勤職員と2名の非常勤職員の時代があり個性的で識見を持った働き人のグループであった。個性的な人の集まりは、時には、不調和を招き、その時、パウラス先生が考えたことは!

「子供たちの育て方、老人の養護、一般社会的向上の仮説のなかから、目的の一致を引き出すのが、施設長としてのわたしの義務であった。」

当時の職員たちは、各自、自分こそ慈愛園はいかに運営されるべきかを、他の人よりもよく知っているという確信を持っていた。事実はだれも知ってはいなかった。

また、4名の職員は、10歳から16歳年長であり、彼女たちの意見によれば、自分の子供の子育てをしたことのある自分が、子育てをしたことのないパウラス先生より賢いとの見解を示していた。しかし、パウラス先生の信念は、

「わたしたちは、進歩した知識の社会事業のモデルたるべく任命されたものである。旧いやり方はより科学的、より衛生的な方法にゆずらなければならない。」   でありました。運営的にも、普通一般の風習と、モデルとして模範になる施設を確立する試行錯誤の中間の線を行くのは容易ではなかった。時には、

「あなた方のやり方は何ですか。わたしたちは人々の憐れみはいりません。日本人は、境遇の如何に関わらず、人間は人間であることを学ばなければなりません。」

と気性が燃え上がることもあった。

施設長としてのパウラス先生の元に16歳年長の職員がいた。業務的には有能ではあったが、リーダーには任命しなかった。   「専門的訓練の欠如と共に、他の職員と協調できないためであった。」   パウラス先生は、職員を採用する条件として、

「わたしたちは責任を遂行するために、十分な意志力を持った人がほしい」   との見解を持っていた。

*モード・パウラス先生は、熊本での社会事業の展開や慈愛園運営において、戦前戦後と方針等をバージョンアップしていることが「愛と福祉のはざまに」の中で記されています。勿論、そこには、後に千葉県にて献身的な働きをされた妹のエーネ・パウラス先生の影響も多大にあったことは言うまでもありません。

当時と現在では、時代背景が異なりますが、モード・パウラス先生が、いよいよ日本を去る時、潮谷總一郎先生を始めとした当時の若い人の手に事業をゆだねられて行かれました。それは、同時に今働いている職員の手にもゆだねられていると言うことになります。

創始者の意志を引き継ぎ「目的の一致のために」チームワークを築き上げ、子どもたちの幸せのために事業運営を展開していきましょう。

「モードは、自分の力で、社会事業施設をたくさんつくって、これを経営しているとは少しも思っていません。これは神様のお仕事であると信じています。モードは、神様の手となり足となって働いただけです。だから大きい仕事をしても、少しも誇りませんでした。」

「くるみの実のなるころ」潮谷總一郎著より

2.幼児の躾について「愛と福祉のはざま」171ページ~

①恐怖心をおこさせることが矯正の鞭

②もう一つの鋭い躾の武器は、「みんなに笑われるよ」

③最も残酷で傷つけるやり方は、捨ててしまうというおどしである。

この三点は、モード・パウラス先生が最も嫌った方法です。

日々の子どもたちへの対応の中で、恐怖心を起こさせたり、「出て行きなさい」と叱責したり、「そんなことでは、みんなに笑われたり、馬鹿にされたりするよ。」などの態度や言葉がけをしていないでしょうか。勿論、「様子を見ましょう。」と放任したり、無関心であったりは、パウラス先生の愛の実践から大きく遠ざかります。

「初心忘るべからず」の言葉通り、創始者パウラス先生の愛の実践から溢れ出た教訓を振り返りましょう。

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